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2006年 04月 10日
~1999年2月16日~
耳年増、という言葉があるけれど、99年2月当時の僕はまさしくその状態だったはずだ。 雑誌やインターネットのサイトなどでどこかの誰かが冷静に紡ぐ文章や、興奮気味に掲示板に報告するあれやこれや。 曰く、 「ファンはスタジアムへ行く前に必ずバール(パブやカフェと言い換えてもいい)に立ち寄り一杯やってから集団で気勢を挙げて行進する」 曰く、 「試合のない日は街中の人間がスポーツ新聞をあちこちで広げている」 曰く、 「ウルトラは試合前にアウェーウルトラと一戦交えてからスタンドに陣取る」 などなど。 それらの文章を見たり聞いたりして、僕はまだ見ぬ「ヨーロッパのサッカー」がどんな風景の中で行われているのかを想像し、妄想し、涎を垂らすように夢見ていた。 けれどバリャドリーのホセ・ソリージャでは一戦交えてる連中は見なかったし、そもそもバリャドリーではバルに行く間もなくスタジアムへ直行した。MARCAを読んでる男たちはあっちこっちで見たが、必ずしも「街中の」というわけでもなかった(スペインでNo,1の発行部数の新聞はあいも変わらずMARCAだけれど)。 「サッカー耳年増」という言葉があったなら、僕は間違いなくそれだったはずだ。そんなウブな21歳の僕にとって、ホセ・ソリージャで体験した(当時としては)刺激的な体験は、「もっと色々なものが見てみたい」と思わせるのに十分すぎるほどのものだった。 2月16日、僕と友人二人は授業が終わるなり教授のところへ走りより、バルセローナへの旅行に行かなくてもいいかどうかを質問した。「なぜ?」と当たり前のように聞かれたが、彼はなぜかニヤついていた。僕達が並外れてサッカーキチガイだというのはクラス中が知っていたし、彼もスペインへの渡航回数は僕らより遥かに多い。だから何となく思い当たるフシがあったのだろう。「既に払った代金は戻らないが、それでもいいなら行ってもよろしい」と、これっぽっちも苦言を呈されず、僕達はまんまとバルセローナ行きの飛行機ではなく、ビーゴ行きの何かに乗るチャンスを得た。 問題はビーゴにどこからどうやって行くかだ。スペインに来る前に、ビーゴがどこにあるのかは調べておいたものの、そこまでどうやって行ったらいいのかまでは全く調べていなかった。「現地に行けば何とかなるだろう」程度の、恐ろしいほどの楽観的な考えが当時の僕達にはあったのだった。 そこで初めて僕達はガイドブックを開いてみた。まだRENFEの駅やバスターミナルに行って、「ビーゴに行きたいんですけど、どうやって行ったらいいんでしょう?この街からは直接行けるんですか?」などというスペイン語を自分達が喋れるとは到底思えなかったのが最大の理由だ。 開いてみたガイドブックには「マドリードからバスで8時間。列車で9時間」と書いてある。ちなみにマドリーからサラマンカまではバスで約2時間半~3時間。夜行列車が様々な街へ出ているという情報も書いてあったため、僕達は「ある方法」を使って調べることにした。 2月17日の水曜日。その日はコパ・デル・レイの試合がマドリーであるとMARCAで見た僕達は、実際にサラマンカからマドリーまでどのくらいかかるのかを下調べするついでに夜行列車の時刻表を調べ、尚且つビセンテ・カルデロンで行われるアトレティコ・マドリー対エスパニョールの試合を見てこようと思い立った。試合開始は午後9時。試合終了はどんなに早く見積もっても午後10時45分。そしてサラマンカ行き最終バスは午後10時30分発だった…。 2006年 03月 15日
いつもいつも、こうだ。
すっかり忘れている時に限って「ヤツ」はやってくる。 街角の看板。 通り過ぎる人の抱えているカバン。 電車の中の何気ない会話。 特にこんな寒い日に。 「寒いな」と思うとその寒さはあの頃の寒さを思い出させるし、「蒸し暑いな」と思えばそれはあの海沿いの街を思い出させる。 そんな日に家でテレビをつけると、決まってスペイン語が耳に入ってくる。 今年はそんなモヤモヤともお別れだ。 思い切り喋れる日が待ち遠しい。 4年ぶりのスペインへ。 あと半年と少し。 2006年 02月 01日
いざとなればダフ屋がいるから大丈夫だろう、というのはスペインに行く前に考えなかったわけじゃない。それくらい試合は見たかったし、それくらい自分にとっては一大事だったからだ。
「そう何度も来れる場所じゃない」 「このチャンスを逃したら一生見られないかもしれない」 そんな気持ちがどこかに必ずあった。 ただ、だからと言って目の前で眼は笑っていないのに笑顔を振り撒いてくる歯の抜けたおっさんからチケットを買おうとはどうしても思えなかった。なぜか? まず、「いくら?」という質問をして返答が返ってきた時にそれが適正なのかどうかが判断できない。「高いよ。まけてくれよ」という交渉に必要なセリフがその時の僕には言うことができなかった。英語で言えばいいじゃないかと思われるかもしれないけれど、スペインにいるのに英語で交渉することほどバカらしいことは無い。 なぜか妙に頭のさえていた僕は肩越しに見える窓口みたいなところに人だかりができていて、そこにたむろしている人達が紙切れの束を持って歩いていくのが見えた。 「No,gracias.」 僕は端的に彼の誘いを断り、一目散に窓口へ向かった。妙に人は少ないが、それでもチケットを売っているらしいことは確かだった。まずは手に入れることが先決。 「2枚下さい」と頼み、カーサとかフエラとか聞かれるだろうと待ち構えていたのだが、予想を反して「どこがいい?」と聞かれてしまった。それでもなぜか僕はスラスラと「選手はいいから試合をちゃんと見たいので上の方がいい」と答え、タキージャの親父はその通りのチケットを発券してくれたようだった。 ホセ・ソリージャまでタクシーで来たせいで僕達は帰り方がわからなかった。だからその辺の人達に駅前での帰り方を尋ねて回り、どうやらスタジアム前の土手みたいなところを越えたところにバス停があり、そこからバスで駅まで行けるらしいことは何となくわかった。 チケットを手に入れ、帰り道のルートも何となく確保。しばらく僕達はスタジアムの周りをグルグル歩き回り、スタジアム周りの雰囲気を堪能するといよいよエスタディオ・ヌエボ・ホセ・ソリージャへ入ることにした。僕達が買ったチケットはトリブーナ・アリーバという席で、ちょうどバックスタンドの2階に当たる場所だった。「上の方がいい」とリクエストしたのだから当然なのだが、きちんと意思の疎通が取れたことがその時は素直に嬉しかったのを覚えている。 薄暗い通路を抜けて古ぼけた汚い階段の手前で無料で配られていたクラブ・ペーパーをもらい、僕は階段を上がってスタンドに足を踏み入れた。 日本リーグの頃から国立競技場には何度も通っていたし、Jリーグが始まってからも国立へは何度も試合を観に行ったことがある。だからその時の景色に似ているはずだろうと勝手に思い込んでいた僕の想像したスタジアムの風景は、想像したよりもずっと素晴らしいものだった。 目の前に見える反対側のメインスタンドが異様に近い。つまり、陸上トラックがなく、見下ろす先には緑色の芝生しかない。メインスタンドから見た場合には左側に位置するゴール裏の上には貴賓席らしきボックスが幾層も連なっていて、そのそれぞれに個別に広告看板が掲げられていた。その様子は大学の授業で見せられた闘牛のビデオに出てきた闘牛場のようで、スタンドがぐるりとピッチを取り囲み、一斉にピッチを見下ろす形になっている。もう一方のゴール裏には電光掲示板が設置されており、反対側とは違ってその上にスタンドがなく、代わりに太陽がそこから燦燦とピッチを照り付けていた。 「すげえ・・・」思い返してみればホセ・ソリージャくらいでこんなことを思ってしまったのだから、一番最初に見たのがカンプ・ノウやサンティアゴ・ベルナベウの試合だったらどんな風になっていたんだろうと思わず考えてしまう。 でも、多分最初がホセ・ソリージャでよかったんだろうとは思う。後のことを考えれば、きっと何かしらの因縁はあったはずだと思うから。 一人で感動していると、突然後ろから「おい、オマエどうやってここに来た!?」と驚いたような声が聞こえた。振り返るとそこには前日までここに来る算段を一緒に練っていた友人がいた。かくかくしかじか、と説明すると呆れたように笑われたが、何とか僕がここに来れたことを喜んでくれた。 ここまでどうやって来たのかを話していると、突然警備員が近寄ってきて「君達は同じグループなのか」と聞いてきた。そうだと答えると「だったら固まって一緒に見てくれ。バラバラだと危険だ」と言われる。日本人だから危険とは思えないので何故だろうと思って周囲を見渡してみると・・・。よく見ると真横になぜか仕切りのロープが張ってある。その向こうには紫色のマフラーを巻いたバリャドリーのファンが多数。反対側を振り向いてみるとそこには空色のマフラーやシャツを着込んだ連中が大勢陣取っていた。 つまり、タキージャにあまり人がいなかったのはそこがアウェー側のチケットを販売していたからで(後から判明するのだが、一箇所だけアウェー用の窓口があった)、僕達はホセ・ソリージャのバックスタンドの一角に設けられたセルタファン用のエリアに知らない間に放り込まれていたわけである。それはそれで望むところだ。もともとそのつもりで来たのだし、こっちとしては何も不満は無いわけである。 価格にして4,200ペセタ。当時のレートで2,800円くらいだろうか?当時も今も、恐らく僕は10,000ペセタだったとしても同じ席を買うだろう。アウェーのスタジアムでアウェー側スタンドに陣取り、数少ない同じチームを応援する連中と一緒にブーイングを浴びる。その時点でJリーグに応援するチームを持たなかった僕にはたまらなく刺激的な経験だった。 おまけに僕達が座った席の真後ろにはセルタBの選手達がピパス(ヒマワリの種)をパリパリとほお張りながらどっかりと腰を下ろしていた。何でセルタBの連中がわざわざホセ・ソリージャまで来ていたのかは知らないが、間近で見る「セルタの選手」は僕にとっては友人と横浜まで出掛け、二人でスペイン代表のユニフォームを振り回し車を止めさせてまでサインをしてもらったフリオ・サリーナスやゴイコエチェアよりも遥かに「ヒーロー」だった。 この日、1999年2月14日にはバルセローナのカンプ・ノウで同時刻にクラシコが行われていた。普通ならそっちに行ってリバウドやらフィーゴやらミヤトヴィッチやらラウールやらを見たがるのだろうが、こちとらマドリーをぶちのめす不良のロシア人がタクトを振るう田舎の空色にハマったクチである。ここに来ないでどこへ行く、という感じであった。 アウェー用の紺色ユニフォームを身に纏ったモストヴォイ、カルピン、ミチェル、レビーボ、カセレス、ジョロヴィッチ、オスカル・バレス、トマス、フアン・サンチェス、マジーニョ、デュトゥルエルを見た瞬間、僕の全身に鳥肌が立った。 27分にカミネロが技ありのゴールを決めて、後半にレビーボがこぼれ球を押し込んで同点にし、18分後にはアルベルトのカウンターゴールを食らってセルタが敗れても、僕の興奮は収まらなかった。 クラシコの途中経過を告げるチャイムと周りのセルタファンが起こした大音量の指笛とブーイング。カミネロとアルベルトのゴールが決まったときのホセ・ソリージャが揺れた感覚。勝利を報告するバリャドリーイレブンに送られた耳を劈くばかりの拍手の雨。その全てが、僕の脳みそを刺激し続けていた。 翌週末。バライードスでセルタ対バルサの試合があることを僕達は事前に調べていた。そして、大学側の予定表にはバルセローナへの観光旅行が組まれていることも知っていた。 どちらに行くかは既に決まっていた。選べる選べないではない。 「自分がどこへ行くべきなのか」 そのために何をすべきなのかを、僕はバリャドリーからサラマンカへ向かうRENFEの中で熱にうかされたようになっている頭で必死に考えていた。 2005年 12月 07日
百聞は一見に如かず。
その後のスペイン生活でも何度か思ったことだが、諺というのは実に良くできている。「確かにね」と苦笑してしまうものも少なくない。 初めてスペインにサッカーを観に行くという知り合いに何度もチケットの買い方や本当に当日でもチケットが買えるのかどうかについて、少しウンザリするくらい聞かれたこともあったが、できるだけ丁寧に答えるようにしていた。 僕だってスペインに行く前、散々いろんなサイトを調べたり見ず知らずの人にメールを書いたりして質問しまくったものだったが、今から思い返してみると「一度やればわかる」と当時の自分に言ってやりたくなる。 それくらい簡単なことだったのか、というと決してそうではない。そういう種類の質問をされたら思わずニヤニヤ笑いながらそう答えたくなるくらい、面白い経験だったからだ。 スペインの国鉄、Red Nacional de Ferrocarriles Españoles、通称「RENFE」のバリャドリー駅から警官の妨害(彼らにしてみれば立派な職務遂行に過ぎないのだが)を潜り抜けタクシーに飛び乗った僕らはプラサ・デ・コロンを通り(実は遠回りだった)、レアル・バリャドリーのホームスタジアム、エスタディオ・ヌエボ・ホセ・ソリージャへと向かった。 雑誌やテレビがイタリアのセリエAをもてはやし、草サッカーをしに行けばミランやインテルのユニフォームばかりを目にしていた当時。インターネットの個人サイトでも圧倒的にセリエAを題材にしたものが多かったあの頃。それでも運良く実家がケーブルテレビに加入していたおかげで98年からリーガ・エスパニョーラを毎週見ることができるようになっていた僕はNHK-BSで見ていた頃よりも遥かにリーガ・エスパニョーラにのめり込んでいた。テネリフェのロイ・マカーイとエメルソンの縦のライン。バレンシアのガイスカ・メンディエータ、クラウディオ・”ピオホ”・ロペス、アドリアン・イリエの攻撃のトライアングルと左サイドのキリ・ゴンサーレス。エストゥレマドゥーラで一人気を吐いていたトニ・ベラマサン。マジョルカのイバガサ、ビセンテ・エンゴンガ、ダニ、スタンコヴィッチ、ラウレン、ミケル・ソレールの織り成す手堅く強烈なカウンター。これまで見ることのできなかったマドリーとバルサ以外の世界がそこには広がっていた。 何より、前の年に僕を虜にしたロシア人が薄ら笑いを浮かべながら操るチームが快進撃を続けながら話題を振り撒いていた。 その空色のシャツを着たチームの試合を、僕は今日始めてこの眼で直に目にする。 実は、1999年2月14日のことは今でもそれほどはっきり覚えているわけではないのだけれど、駅に着いてから家に帰るまで、僕はずっと興奮しっ放しだった。 だからかもしれない。「ところで、チケットってスペイン語で何て言うのかオマエわかる?」と唐突にタクシーの中で聞かれても、そして僕がそんな単語を一切思い付かなかったとしても、何ら不安に思うことはなかったのは。 「ここだ。楽しんできな」ぶっきらぼうに言い放つ運転手にグラシアス、と一言かけると僕らは振り返りもせずにスタジアム正面へ向かった。チケット売り場、スペインでTaquilla(タキージャ)というその場所がホセ・ソリージャのどこにあるのかだって知るわけが無い。ぐるっと回ればわかるだろうと思っていたし、何よりその場の雰囲気に僕は完全に圧倒されていた。スタジアムの外壁にへばり付くようにして設置されている粗末な屋台の売店。それが軒を連ねてどこまでも続いている。紫を基調にし、白と黄色と黒でアクセントをつけたバリャドリーのマフラーが何十種類も売店で売られていた。むせ返るほどの人の波が売店に押し寄せ、ピパスと呼ばれるヒマワリの種やお菓子類を売る売店の売り子の呼び込みの声がそこかしこから聞こえてくる。しょぼいプラスチックのカップに入れた赤ワインをかっくらって顔を赤くしているおっさんがラジオを聞きながらセグンダの試合経過を大声で実況している。 国立競技場に観に行ったどのJリーグの試合会場の雰囲気よりも熱気に溢れ、埃臭く、わけのわからない興奮が僕を包んでいた。 ここか。ずっと来たかったのはこういうところだったのか。 憧れ続けてようやくたどり着いた聖地みたいな感じで僕はフラフラと歩いていた。すると一際人だかりのできている場所を見つけ、僕はなぜだかそこがチケット売り場だと直感した。 と同時に、目つきの鋭い男が僕達に近寄ってきて言った。 「買わないか?」 彼はダフ屋だった。 ~つづく~ 2005年 11月 28日
「大丈夫?」
2月14日に目覚めた僕に向けられたのは全部このセリフだった。 なんでこの日にこんなセリフを僕が言われ続けたのかという理由は大きく分けて2つある。 1つは、前日の2月13日に僕が闘牛に吹っ飛ばされて脳震盪を起こし、軽く記憶障害を起こしていたこと。 もう1つは、14日になっても言われたこと、やろうと思ったことをすぐ忘れるような状態が続いていたにも関わらず、バリャドリーまで生まれて初めてのセルタ戦を観に行こうとしていたことだった。 正直に言うと僕は今でも1999年2月13日のことをよく覚えていない。月日が経って記憶が曖昧になっても、誰かに言われて思い出すことは誰しもあるはずだ。でも、僕はいまだに、誰に何を教えてもらっても、その日ステーキとワインで昼食をとったことを知らないし、乗馬をしたことだって覚えてない。あまつさえ「せっかく来たんだから何事も経験だ」とか言って自ら闘牛に志願したことなんてこれっぽっちも記憶にないのである。 スペインに来て初めての週末ということで、大学のクラス皆で周辺の遠足に行くことになっていたのは覚えている。前日に近所の小学校でサッカーをやっていた連中に混ぜてもらって初めて外国人とサッカーをしたのも覚えているし、その夜クラスの女の子の誕生日パーティーをやったことまでは覚えているのだが、その後からの記憶が相当な範囲で抜け落ちているのだ。 13日のことで覚えているのは翌日がクラシコだったせいでMARCAがクラシコ一色に染まった紙面構成だったこと。はっきり覚えているのはそれだけだ。後は自分の記憶で持っているのは断片的なものでしかないし恐らく時系列が滅茶苦茶になっている。 手元に残っていた、あまりの僕のおかしさに恐れをなした友人が書いてくれたメモによると、その日はサラマンカから1時間ほどの牧場に行き、闘牛牧場を見学。途中で昼食を挟み若い闘牛士が練習で使う古い小さな闘牛場で「闘牛候補の子牛」と一戦交え、敢え無く瞬殺されたらしい。そう言えば、と思って頭の中のタンスをひっくり返してみると、なるほど確かに目前に迫ってくる黒い影を見た気がする。それが牛だったのだろうけれど、それより鮮明に蘇るのは鈍い衝撃と「キャー!!」という悲鳴だったっけ・・・。どうやら腹に一発食らった後、角(一応切られていたので腹は無事だった)に引っ掛けられた挙句に空中に放り投げられ、3回転くらいして頭から土に落ちて起き上がったところをさらに顔面に一撃を食らったらしい。食らったと言っても今無事に生きていてこんなものを書いているくらいなのだから実際にはそんなにたいそうなものではなかったんだろうし、実際その時には自分で起き上がって何とか地力で待避所みたいなところに逃げ込んだらしいからその時にはそこまで意識も朦朧としていなかったんだろう。 で、その後ステーキとワインで昼食をとった後に乗馬をしたらしいのだけれど、この辺なんかはどうあがいても全く思い出せない。その後のことで思い出せるのは病院らしいところでひげ面の医者にレントゲンを取られたことと、ステイ先に戻ったら家族の皆が度肝をぬいていたことくらい。後から聞いたら僕は病院にいる間中、医者と先生に「俺、スペイン語で喋ってますよね?スペイン語忘れたりしてないですよね?」と何十回も確認するもんだから、医者がゲラゲラ笑いながら「大丈夫だよ。君は私の言ってることが理解できてるんだろう?だったらスペイン語で話してるっていうことさ」と言われたらしい。ちなみに「誰か闘牛をやる奴はいないか」と誘った闘牛場の主は、僕が吹っ飛ばされた後にニコニコしながら近寄ってきて「素晴らしい!なんて勇敢なんだ君は!」と感激していたらしいのだけれど、どうやら現在、うちの大学の短期留学では闘牛をやるのは禁止になったそうである。・・・そりゃそうか。ちなみに言うと、今でも僕の部屋にはスペインの病院で撮影された自分の頭部のレントゲン写真が残っている。 そんなわけで、翌日目覚めると何だか体中あちこちズキズキ痛むし、傍らにかけてあるコートは泥だらけだし、顔の半分には妙なバンソウコウとかさぶたがやたらとあるしで怪訝な気持ちでキッチンに行った僕に、2つ年上のアンヘルと同い年のアルバ・マリーアと、3つ年上のアスセーナが揃って「大丈夫?」と声をかけてきたのだった。 「今日はどうするの?ゆっくり休むの?」とお母さんのマリーアに聞かれた時には、正直な話、前日までにバリャドリーまでの交通手段と時刻表を調べてあって、後は入場チケットをどうするかだけだ、と話し合っていたことなんかすっかり忘れていたのだが、「うん、今日はのんびりするよ」みたいなことを言って部屋に戻ってから自分でメモった時刻表を見て急に思い出したのである。 「そうだ。今日セルタの試合じゃん」と。 試合開始は夕方5時。その時点の時間は昼12時(なぜか今でも覚えている)。バリャドリーまでは電車で1時間半くらい。突然何かが起こったみたいに頭が冴えてきた僕は落ち着くためにキッチンに行ってオレンジジュースを一気飲みした。傍で見ていたアスー(アスセーナの愛称)が「急に飲んじゃダメ! それから今日は柔らかいものを中心に食事しなきゃダメよ」と優しく諭してくれたのだが、「いや、俺これからバリャドリーに行くからそんなの食べれないよ」と真顔で言うと「ちょっとママ! とんでもないこと言い出してるんだけど!」とマリーアを呼びつけた。マリーアはマリーアで僕がバリャドリーに行こうとしていたことを覚えていたらしく、「ああ、そう言えば言ってたわねえ。本当に行くの?」と真顔。いろいろ話して「1人じゃ危ないから誰か同行者がいるなら行ってもいい」という話になったので念のため支度をしてから僕はプラサ・マジョールに向かった。 溜まり場にしていた店に行っても誰もいない。ダメかと思ってプラサ・マジョールのベンチに戻ると運良く真っ赤なケバケバしいコートが見つかった。この男はアトレティック・クルブ・デ・ビルバオのファンなのだが、コイツなら誘えば来るかも知れないと思い誘ってみると、一応OKということだったので待ち合わせ時間だけ決めてさっさと僕は家に戻る。皆に「学校の友達が一緒に行ってくれることになったから行ってくるよ」と言うとマリーアがボカディージョを作ってくれ、アスーが「これ必ず飲みなさい」と化膿止めと痛み止めの薬を持たせてくれた。 1時20分くらいに待ち合わせていたはずなのだが、その日の僕は自分がどこで待ち合わせたのかも覚えていられない状態だった。運良くクラスの仲間を見つけたからそいつがどこにいたのかわかったからいいものの、今から思い出すとぞっとする。歩いて行くのでは間に合わないと思ったのでタクシーに乗って駅へ行き、自動販売機で1時45分発のバリャドリー行きの切符を買おうとしても機械の使い方がよくわからなかったので窓口に行って「バリャドリー!バリャドリー!早く!」と言うとさっさと切符を出してくれた。 だがホームへ行っても肝心の列車がどれなのかわからない。列車の前で熱烈なキスをしていたカップルの肩を叩き、「この電車ってバリャドリー行きますかね?」と強引に質問すると、目鼻立ちがハッキリしていて長い金髪の髪の毛が綺麗な美人の彼女にはちょっと不釣合いじゃないかと思ってしまう野暮ったい薄汚れたダウンジャケットを着ていた彼氏が「ああ、行くよ。切符見せて。・・・指定席か。321号車だから、ちょうどここだね」と親切にも教えてくれた。 「ありがとう」と言い残して僕達は列車に乗り込み、座席に腰を落ち着けた。発車してからは昼飯にボカディージョを食べ、アスーが持たせてくれた薬を飲み、後はMARCAを読むだけ。読むと言ったって当時の語学力なんて大した物でもなかったはずなのになぜか「読んでいた」記憶はある。 バリャドリーに3時10分に到着。実際には遅れていたと思うのだけど、切符にそう書いてあったからその時間に到着する「つもり」だったんだろう。転がるように列車を降りると駅前のタクシー乗り場に僕は迷わず直行・・・するはずだったのだが、突然二人の警官が僕達の行く手を遮った。 「やあ。君達外国人だね?申し訳ないが、パスポートを見せてくれ」 いつもの僕ならまずいとは思うものの、日本人の場合はコピーだけでいいはずだと思い出しておとなしくそのコピーを見せながら説明でもしたと思うのだが、セルタが絡んでいるからイライラしていたのか何なのか、その日の僕はやたらと好戦的だった。 「俺達はサラマンカ大学の学生。ほら、学生証がこれ!急いでるから早く!」 とまくし立てた。かなり早口だった気がする。 チェックが終わるなり警官の手から学生証を引っ手繰ってタクシー乗り場へ。日本とは違い、手動で右側から乗り込むなり、僕は運転手に「スタジアムまで。今日バリャドリーがセルタと試合するはずですよね?」と告げた。「なんだ、サッカー観に行くのか。今日はセルタ相手だからな。厳しいだろうなあ・・・」と言いながら運転手はラジオをサッカー中継に合わせてくれた。 「オマエ、すごいな。やたら喋ってんじゃん」 同行者は呆れるように言った。それもそのはずだ。何しろサラマンカを出発する段階からタクシーに乗り込む今の今まで、全ての会話を僕が行っていたのだから。 「そうか?そんなことより、間に合うのかな?スタジアム遠かったら嫌だな・・・」と僕は奴の言うことなど全く聞いて(聞こえて?)いなかった。僕はただ、コロンブスの像を右手に流れていくバリャドリーの街並みを眺めながら、試合に間に合うのか。そしてチケットを無事に買ってセルタの試合が見れるのかを心配していたのだった・・・。 ~つづく~ 2005年 11月 25日
スペインは四六時中暑くて、誰でもヒマさえあればフラメンコを踊り、祭といえばトマトを投げつけあったり牛に追いかけられたりする「アツイ」国だと思われがちなのだけれど、実際に僕がスペインで過ごした1年と数ヶ月の間でそんな光景に出くわしたことはただの1度だってありゃしない。
アンダルシアにいても11月にもなれば夜は寒くてコートが必要だし、普通に吐く息は白かった。祭日に出かけたってどこにもフラメンコを踊っている人なんていなかったし、トマトを投げ付け合うようなお祭なんてスペイン人でさえ行き方やどこにあるのかさえ知らないようなちっぽけな村で年1回行われるだけ。「牛追い祭」と日本語で紹介されるお祭が、本当は牛の前を走って勇気を試したがるバカなアメリカ人のためのものではなくて、神様の化身に見立てた神聖な動物=牛と一緒に牛が天に召される神聖な場所である闘牛場まで一緒に走ることに幸せを感じるという意味があるものなのだということを知ってからは僕の中で「牛追い祭」はきちんとスペイン語の「サン・フェルミン」になった。 ただ、それを知ったのはスペイン語を学び始めてからで、もちろんバレンシアやバリャドリーが「ヴァ」レンシアや「ヴァ」リャド「リッド」などではないこともそれから初めて知った。 だから2月のマドリーが凍えるほど寒いことにも素直に驚いたし、サラマンカを含むカスティージャ・イ・レオン一帯が「スペインの冷蔵庫」などと呼ばれているということをホストファミリーのマリーアお母さんから聞かされた時には実に驚いたものだった。ただ、本当に「凍てつくような寒さ」だということを身をもって知ったのは、翌日大学に向かう道を息子のアンヘルに案内してもらう時だった。家から外に出た時のあの空気の変わりようは今でも忘れない。それから何度となくその空気の変わり目を体験しても、あの瞬間だけはどうしても体がこわばってしまっていた。 ともかく、その日から初めての外国での生活(当時はとてつもない冒険だったが、その後のことを考えるとかわいいものだ)が始まった。 僕と同様にスペインサッカー馬鹿の友人とは学校の宿題もおざなりにして「どうやったらビーゴに行けるのか」ということしか考えていなかったし、スペインでしか手に入らない「何か」を求めてサラマンカの街を彷徨った。今から考えればサラマンカなんぞで「特別な何か」など見つけようもなかったのだけれど、「本場ヨーロッパ」に行けばサッカーが溢れていると思い込んでいた当時の僕らとしては、何かあるはずだ、という根拠の無い確信を持って街を彷徨い歩いていたのだった。 寂れたスポーツ用品店に行って、バルサの100周年ユニフォームを見つけて興奮したり、レアル・マドリーの見たことも無いジャージやスウェットを発見しては大騒ぎしたりを繰り返していた僕達が、スタジアムで度肝を抜かれるのはもう少し後の話だ。 サラマンカに到着してからの5日間くらいは噂に聞いていたバルの様子を楽しんだり、キオスコで買うMARCAやASを見ながら胸をときめかせている程度のことだった。 「スイッチ」が入ったのは6日後。忘れもしない(実際は忘れているんだろうけど)1999年2月13日のことだった。 ~つづく~ 2005年 11月 17日
「スポーツ新聞のMARCAという新聞を欲している状態が私なんです」
恐らくその時に自分が口走ったスペイン語を日本語にしたらこんな感じになったはずだ。気のせいではないと思う。その証拠にこのセリフを投げかけられたキオスコと呼ばれるスペインの路面売店のおっさん(頭が少し禿げていた)はニヤニヤ笑いながらMARCAを僕に手渡し、咥えていた葉巻をわざわざ口から離して「ひゃく・にじゅう・ご・ペセタ」とその後、どんなスペイン人からも聞いたことが無いようなバカ丁寧な発音とイントネーションでMARCAの値段を教えてくれた。 誰だってそんな状態になったに違いないとは思う。海外旅行に行くこと自体人生で2度目でしかなかったし、何しろ1度目は自分で現地の言葉を使うことなんてなかったのだから。しかもこの時使わなければならかったのはまだ1年(正確には休みを抜いたら8ヶ月だった)しか触れていないスペイン語だった。 普通に喋れという方が無理な話だったのは確かだろう。 それでも、僕らはそこにいた。朝焼けの雲が頭上にちらつく極寒の2月のマドリー。生まれて初めて「ワールドサッカーダイジェスト」とかの記事でしか知ることの無かった「MARCA」なるスペインのスポーツ新聞を僕はこの手に取ったのだ。あの時の感動は今でも覚えているのだけれど、悲しいことにその時買ったMARCAはもうどこかに捨ててしまった。原因はハッキリしている。その時の滞在で毎日MARCAを買っていたせいで、荷物が多くなりすぎたからだ。これは翌年もその翌年も繰り返し起こったバカげた笑い話だ。 「皆と同じことが同じようにできない」のはこの時に始まったことではないのだけれど、とにかく僕は同行の皆が懸命にスーツケースをバスに詰め込んでいる間、ありったけのスペイン語を並べ立ててMARCAを買ったわけだ。おまけに皆がこれから初めて出会うホストファミリーのことについて期待や不安を打ち明け合っている間中、僕だけは目の前に突然現れたビセンテ・カルデロンに興奮していた。 僕達は「語学研修」という名の短期留学をサラマンカで行うことになっており、その日がサラマンカへの移動日だった。マドリーからサラマンカまではバスで3時間。アウトピスタと呼ばれる高速道路を一路北北西に向かうことになっていた。 高速道路と言えばよく整備されたサービスエリアがあって、自動販売機や売店、土産物ショップがあるのがどこの国でも当然のことだと思っていた当時の僕にとっては、中央分離帯もなければ遮音壁もない高速道路の様子にも驚いたし、なによりサービスエリア(のように見えなくも無い休憩所)の人気の無さにも驚いた。スペインではこの荒野の真っ只中にポツンと建っている場末の居酒屋みたいな建物をサービスエリアというのだと悟ったのは、自分達の乗ったバスの目の前に、アトレティコの旗を張り巡らせた車が何台も止まっているのを発見したからだ。 海外のサッカーファンにはとんでもなく過激な「ウルトラ」と呼ばれる連中がいるのは聞いていたし、ドイツやオランダ、そしてイングランドには「フーリガン」がいるというのも知ってはいた。だがもちろん日本にいる限りそんな連中と遭遇することはなかったし、地元にJリーグのクラブがなかったせいで日本版のウルトラさえもその当時僕は見たことが無かった。それに近いのが浦和のファンだというのは何となくわかってはいたけれど、別に浦和が好きなわけでもないので近づくことがなかったのは言うまでもない。 そんな「ウルトラ初体験」状態の僕の目の前に、本物のウルトラ達がいた。その時の僕に「本当はスポルティング・ヒホンの連中が一番ヤバイ」ことを教えてくれる人は誰もいなかったし、ダービーの度にベティコがセビージャのステッカーが貼ってある車を最低1台は燃やすことを教えてくれる人もいなかった。アトレティコのウルトラがレアル・ソシエダのファンをナイフで刺し殺した、という衝撃的なニュースを雑誌で読んだことがあるだけの僕にとって、スペインのサッカーファンで近づいてはいけない人種は間違いなくアトレティコのウルトラだったのだ。 とはいえ、こちらは善良な日本人なのだ。別に敵意をあらわにしているわけでもなければ、連中がその日向かうサラマンカのユニフォームを着ているわけでもない。だから危害を加えられることも無いはずだ、となぜか信じることのできた僕は、ニコニコ笑いながら彼らの車のリアガラスを覆っている旗を指差して「アトレティコ?シー!アトレティコ、ヌーメロ・ウノー!」とか言ってみた。「そうとも、アレトティコが1番だ!」とでも返してくれるかと期待していた僕を待っていたのは友人の白いマフラーを指差して放たれた「そいつは何だ」というドスの効いたセリフだった。 今でも思うのはあの日調子に乗ってサラマンカのエスタディオ・エルマンティコまでサラマンカ対アトレティコの試合を見に行かなくて良かった、ということだ。見てみたかったのは確かだが、あの夜スタジアムの周辺で起きたというアトレティコ・ウルトラ対サラマンカ・ウルトラの小競合いに巻き込まれていたらと思うとゾッとする。 ともかく、僕はその日初めてウルトラというものを見て、そいつらが危険な盲信者だということを身をもって知った。ニック・ホーンビーの書いた「ぼくのプレミア・ライフ」という本には「実際にはゴール裏にメディアが書くようなゴロツキはいやしない」みたいなことが書いてあるのだが、それは彼がハイバリーに通っていたからだと思う。スタンフォード・ブリッジには有名な「チェルシー・ヘッド・ハンターズ」がいたし、日本でイングランドがワールドカップの数試合を戦った日の夜には、肩にエヴァートンのエンブレムとドクロの刺青を入れ、「I love Everton,Fuck you Liverpool」と彫り込んだスキンヘッドのヤバそうな奴も見た。全員が全員そんな連中でないことには僕も同意するのだが、ひとまずアトレティコの連中がヤバイのだけは確かなようだった。そうでなければ関係ない日本人が巻いている白いマフラーにあんなに敵意を見せることなんてないはずだ。・・・もちろん、安易に話し掛けたりしたこちらも悪いのだけれど。 ウルトラとの遭遇を果たした僕はこれから自分が企てていることに多少の危険が伴うのではないかという当たり前のことを今更ながらに心配し始めていた。実際にそれは起こったのだけれど、幸運なことにその短期留学中ではなかった。当時は別の意味で危険な体験をしたわけだが、それはもう少し日がたってからのことだった・・・。 ~つづく~ 2005年 11月 16日
部屋の棚に並べられた数え切れない物の中に、一本のビデオテープがある。
1997年のリーガ・エスパニョーラの取るに足らない1試合。テープの背に張られたラベルには当時見様見真似で書いたスペイン語で【97-98 Liga Española:Celta-Real Madri「do」】と書いてある。「第○節」というスペイン語がわからず、マドリーは本当は「マドリード」か「マドリッド」のどちらなのだろうと真剣に悩んでいたがゆえに起こったのであろうスペルの間違い。 1997年当時、僕はまだスペイン語に出会ってさえいなかったにも関わらず、副音声で録画されていたその試合のビデオから聞こえる本当はガリシア語だったその言葉の数々を、2年後までスペイン語だと信じていた。 レアル・マドリーにはまだフェルナンド・レドンドがいて、前線にはダボール・スーケルとプレドラグ・ミヤトヴィッチがいたあの頃。チェンドやセクレタリオが右サイドバックを代わる代わる務め、アマビスカがまだマドリーの11番を背負っていた。ラウールは今より幼い顔立ちの19歳で、2005年の今現在は頭の禿げたフランス人が付けている背番号5番はサンチスのものだった。そんな年。日本で放映されるリーガ・エスパニョーラの試合と言えば98%くらいがマドリーとバルサのものだった、あの頃。 幸運にも出会ったその試合が、初めて空色のユニフォームに興奮した瞬間だった。断言はできないのだけれど、もしあの試合を家で見ることがなかったら、多分スペインに行くことなんてなかったかもしれない。その証拠に、あの試合を見た後、いつの間にか大学受験の志望学科に「スペイン語学科」が付け加えられており、回りから見れば大した価値の無いその大学の試験に思いのほか気合を入れて臨むことになったのだから。 色々な要因はあったにせよ、とにかく僕はその空色のチームとスペイン語にのめり込むことになった。人それぞれ、様々な思い入れや思い出と一緒に空色を眺めてきているはずだとは思うわけだが、その一つとして「やっちまった」例がこんな感じだったのか、と思ってもらえれば幸いかもしれない。 ~つづく~ 2005年 09月 26日
「首位ですよ、奥さん」
「お隣が引き分けたんですって?ザマアないわね」 「ホントにねぇ~。さっさと消滅してくれないかしら、汚らわしい」 などという会話もチラホラ聞こえてきそうな今日この頃。 そんなこんなで我がセルタ・デ・ビーゴはいまだに順位表の一番上にちょこんと名前を乗っけており、その下にはやれ銀河系がどうのこうのとか18歳のアルゼンチン人が云々かんぬんとか、初めてチャンピオンズ・リーグに出たとか何とか豪勢な話題を振り撒いてくれる優勝候補とやらがいくつもいくつも雁首揃えて並んでいるわけなのである。 おまけに今年加入したばかりのフェルナンド・バイアーノがピチーチ争いをしている。セルタのセンターフォワードがピチーチ・ランキングの上位に顔を出したのなんか何年ぶりだろうか。ペネフ以来まともに働いてくれる「センター」フォワードがいなかったのだから無理もない。移籍初年度のカターニャだって17点獲ったはいいもののその後はあの通りだったのだからうかつに喜ぶわけにもいかないのだが、まずはこの状況を楽しもうじゃないか。 今年のセルタは久しぶりにそんな気分にさせられる何かがある。 遅ればせながらようやくレアル・マドリーを凹ませた第2節の試合を見たのだが、なるほど、という感じである。セグンダの試合は当然フルに見たこともないし、かろうじてニュース映像の30秒程度しか見れなかったので昨シーズンの攻撃や守備が実際どうだったのかは知る由もない。 が、今年はいつもの「突然怪我人続出症候群」や「押し込みながらヘマして失点多発症」や「ここぞという時に空中分解病」さえ出なければ、ひょっとすると98-99シーズンのようなワクワクする「あの」セルタの再現が見られるかもしれないな、とふと思った。何しろバイアーノが良く動く。動くだけならカターニャもベニーもミロセヴィッチもそうだったが、きちんと収めてサイドやトップ下に散らしてくれる。体の使い方も上手く、マヌケなボールの取られ方も少ないときている。まさにMARCAが書いていたように「ペネフの再来」と言える働きっぷりである。 アンヘルとプラセンテの守備には多少不安な点もないわけではないが、コントレーラスとセルヒオのセンターバック二人が意外にも固く、押し込まれた時の堪え方もここ数年では見られなかったくらいに安定しているように見える。カノッビオはまだ少し弱々しいところもあるが、今の段階で多くを望むのは酷かもしれない。欲を言えばバイアーノからヌニェス、カノッビオにボールがわたったときにイリネイかオウビーニャのどちらかが積極的に前に出てきてくれれば、3年前に比べると動きに爆発力の無くなったグスタボ・ロペスのところをカバーできるくらい攻撃に迫力が出るとは思うのだが・・・。 それにしても、これは気持ちがいい。思うように試合が見れなくてイライラしても、今シーズンは少なくとも6試合は見られるのだ。なぜならセルタは1部リーグにいるから。毎週毎週結果を目にして一喜一憂することになっても、様々な可能性を考えて楽しむことはできるのだ。1部リーグはUEFAカップにも、チャンピオンズ・リーグにも繋がっているから。 そしてセルタは今、首位に立っている。 El Celta sale de El Madrigal cómo líder. El Celta se mantiene firme en el liderato. 美しい響きだ。願わくば、あと何回か似たような文章や言葉に出会えますように。微かな夢と、胸いっぱいの親愛の情を込めて順位表を確かめよう。二度と去年みたいな気分にならないように。 2005年 09月 19日
開幕2連勝。
たった1年で戻ってきたとはいえ、昇格してきたクラブにとって中堅どころと優勝候補の筆頭に勝利を収めてのこの結果は望外の上々な滑り出しだったと言えるだろう。首位に位置しているセルタを、それもプリメーラで見ることなどここ数年間お目にかかったことがないのだからなおさらである。 だがしかし、普通なら「今年はやれる!」と気合が入りそうなこの結果にも、空色の旗を長年身に纏って来た仲間たちなら「…ふーん」という感じだったはずだ。 普通なら「やれる」と感じるところであっても、その次の瞬間「それかよ!」と突っ込みたくなる結果を何年もの間何十回となく見せられてきた方としては、たかだか開幕から2回くらい連続して勝ったくらいでは喜べもしないし驚きもしない。戦力的には整っているのだし、ヘタをしたらチャンピオンズ・リーグに出たシーズンよりも潜在能力は高いのかもしれない。それでも、「予想外の好結果」を素直に望めないのはこのクラブに魅せられてしまったファンの宿命ともいうべきものかもしれない。何しろチャンピオンズ・リーグに出たくせに翌年降格してくれた連中なのだから。 レアル・ラシン・クルブ・デ・サンタンデールとはすこぶる相性が悪い。それはラシンが何位にいようが関係なく。ベストメンバーを揃えていたはずの試合でも当時気勢を挙げていたサルバにボコボコにやられたし、相手が降格寸前の試合でもなぜかホームで負けたりした。挙句の果てにはロスタイムを9分間も取られて終了間際に追いつかれたりもしている。数々のシーンで立ちはだかってきたハビ・ゲレーロが現在はセルタにいるのが何とも不思議なわけだが、奴がラシンにいなければ今回は何とか勝てるんじゃないか、とそんな淡い期待もしないではなかった。 0-1 笑ってしまう結果を明け方に目にしてやっぱり笑ってしまった。デポルがバレンシアに引き分けて自分たちよりも上の順位にいることはもちろん不愉快極まりない出来事なのだが、それ以上に自分が追い続けるクラブがいつまでたっても自分が好きになった頃の「あの」症状をまだ残しているのが歯がゆくもあり、なぜか愛しくも思えてくるのだから、盲目的なファンとは困ったものだと我ながら頷かざるを得ない。 こういう時にファンの口から出てくる言葉は決まっている。 「まだ開幕したばかり。1回くらい負けることは大したことじゃない」 その1回1回も積み重なると一昨年みたくとんでもないことにもなりかねないのだが、ゲンキンなもので昇格して1部に戻ってさえしまえばどことなく安心してしまう自分がいる。こういうのがよくないんだろうな、と自分の性格や生活にも思い当たるフシがあるので何となく考え込んだりもしてしまうわけなのだが…。 何はともあれ、シーズンは既に3試合を消化。今のところ3位にいるとはいえ、12月の段階で順位表のどの辺りにいられるかで5月の状況がある程度は読めるだろう。 1回1回の失敗が積み重なるからろくでもない結果が待っているわけであって、1回1回着実に結果を残していけばそうそう悪いことは起こるものでもない。 知らないうちにラシンに移籍していたフランシスコ・カスケーロがゴールを決めた、という新聞記事を読みながら、ふとそんなことを思ったのだった。
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